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┃池田晶子名文集┃11「幸せとは」080401
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 幸せという言葉を先に立てるのが間違いのもと(笑)。それを欲しが
るから、それが苦しむことになるんですね。だから、そんなことは考え
ないほうがいいのです。

 幸せとは何かなんてことを言うと不幸になる(笑)。


 池田晶子・大嶺顕『君自身に返れ・対談』本願寺出版社(2007)
 145p
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※タイトルは、ねこてつが勝手につけたものです。

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┃池田晶子名文集┃12「ニーチェと神」080408
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 神について、あなたは神について考えたことはあるか。あの神でもど
の神でもない、あなたがあなたであり、世が世であるそのことのなぜと
しての神だ。神を信じるということと、神を考えるということは、実は
全然似ていないのだ。ニーチェがその死を宣告したのは、信じられてい
る神、信仰の対象としての神様でしかない。間違えるな、彼は神を殺し
たのではない。信仰の神を殺すことによって、真正の神を生き返らせた
のだ。その証拠に、みよ、この無神論者もやはり無の無いに耐えきれず
「超人」すなわち「神人」という、明らかに汎神論的な主張を口走るに
至るのだ。

 池田晶子『メタフィジカル・パンチ』文藝春秋(1996) 68p
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※タイトルは、ねこてつが勝手につけたものです。

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┃池田晶子名文集┃13「哲学入門??」080415
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 竹田青嗣という人が、現代思想入門や現代哲学解説の本を、たくさん
書いていることは知っていた。

(…中略…)

 たとえばこんなくだりがある。『自分を知るための哲学入門』の「ま
えがき」だが、

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…哲学とは何か。わたしとしては、この問いに対して三つのことを挙げ
てみたい。

(1)ものごとを自分で考える技術である。
(2)困ったとき、苦しいときには役に立つ。
(3)世界の何であるかを理解する方法でなく、自分が何であるかを了
   解する技術である。…
================================

 なら、私としては、この答えに対して三つの問いを返してみたい。

(1)誰が他人で考えられるか。
(2)役に立ったら、あとはいいのか。
(3)顔を洗って出直してこい。

(…中略…)

 絶望的な勘違い。私ならこう言う、「哲学とは何か」。

(1)考えることは技術ではない。技術によっては考えられない。
(2)何の役にも立たない。かえって困る、苦しくなる。
(3)自分とは何ものでもないという不可解に、自失する狂気である。

 前にも言ったけれども、ダメ押しでもう一度言う。「哲学とは何か」
という問いから入ることはできないということ。そしてまた「入ろう」
と思ってもそれは入れるものではないということ。あなたは「何を」知
りたいと思っているのですか、なぜ「哲学」なのですか。

 池田晶子『メタフィジカル・パンチ』文藝春秋(1996)
 97〜99p
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※タイトルは、ねこてつが勝手につけたものです。

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┃池田晶子名文集┃14「ひとこと、その2」080422
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 世の中悪くても、自分だけは善く生きることはできますよね。


 池田晶子・大嶺顕『君自身に返れ・対談』本願寺出版社(2007)
 169p
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※タイトルは、ねこてつが勝手につけたものです。

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┃池田晶子名文集┃15「哲学=考えること」080429
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 哲学という言葉を使うと、みなさんは哲学という何者かがあるように
思われるようです。書物だとか偉い人の考えだとか、学校で教わる講義
とか哲学史、学説、そういうものが哲学だと人は思う。だからそんなも
のはないということを言いたいために、私は哲学という言葉を使わずに
「考えること」というふうに言うんです。何かそういう事柄をお勉強す
るというふうになると、それはもう哲学ではないんですね。極論すれば
哲学者の本だとか学校の先生の言うこととか何もなくても、手ぶらで零
から、不思議について考えることはできるし、またそうするべきことな
のです。

(略)

 あえて何を考えるのかという、「何を」を説明してみますと、これは
先ほどから言っている「不思議」、自分であるということとか、宇宙が
在るという絶対的不思議、これがどういうことか知りたい、考えていけ
ば無限の話ですからどこまででも行ってしまいますが、それらはすべて
日常のこの人生に端を発していることでして、だから何を考えているの
かというと、人生を考えているといっても全然間違いではありません。

 池田晶子『あたりまえなことばかり』(株)トランスビュー2003
 92〜93p
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※タイトルは、ねこてつが勝手につけたものです。

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┃池田晶子名文集┃16「思索の果て」080506
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 …生きているということと死んでいるということは同じことだと日頃
からうそぶいていた始祖タレスは、それならなぜ死なないのかと人に問
われて、生きているのと同じことだからと答えたという。生死の相対性
を超えたところの、あるいはそれらがそこから出てくる、絶対的な「存
在」、それは何か、哲学の思索の醍醐味は、いよいよここからである。

 じっさい、このような言い方は可能なのだが、生きながら死んでいる
、かの「永遠」を思うその時間、思考の切っ先が幽明の境に溶け出して
いくような、自分が誰で誰が何なのか、およそ知り得ないということす
らむしろ快いような、それはその意味で至福の時間である。いや時間で
はない。形而上には時間はないのだから、「存在」と触れ合ったその刹
那、全方位に底が抜ける万象の光景というべきだろうか。これはいった
いどうしたことなのだという謎の感覚だけが、時に鋭く立ち上がる。

 今ここに(生きて)いることの奇跡、とは、正確にはこのような事態
を言うだろう。死なずに生きていることが奇跡なのではない。それは奇
跡の意味とはならない。存在が存在すること、その謎に驚いている自分
が存在するということ、このことが奇跡なのだ。すなわち、謎なのだ。
謎を見てしまった者にとっての幸福とは、何か、謎と心中するといった
ようなことに似てくるだろう。言われていることの意味は、もはや不明
である。しかし、観念にすぎない死を恐れ、観念にすぎない死後を空想
するところの、その意味での不幸は、真正の形而上学を経ることで、何
がしか甘美な困惑へと変貌するはず、そのことだけは確かである。

 池田晶子『あたりまえなことばかり』(株)トランスビュー2003
 92〜93p
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※タイトルは、ねこてつが勝手につけたものです。

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┃池田晶子名文集┃17「子供は知っている」080513
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 子供は、生まれ育ち、教えられてゆく過程のどの時点で、それを忘れ
るのだろうか。自分は真実を知っているというあの内的な感覚である。
おそらく、外界を摂取し、外界に適合しようとすればするほど、内界を
忘れ、内界の感じ方を忘れる。決して両立しないことはないはずなのだ
が、両立のさせ方を教えられる人がいない。それが現状なのだろう。受
験教育も学歴偏重も、その思想は詮じつめれば、人間の幸福は外界にあ
るという大人の思い込みだからである。

(中略)

「知る」ということは、「思い出す」ということだと言ったのはプラト
ンである。誰もが「生まれつき」真実の知識をもっている。忘れている
それらを思い出させるのが、つまり教育なのだと。

 池田晶子『あたりまえなことばかり』(株)トランスビュー2003
 16〜18p
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※タイトルは、ねこてつが勝手につけたものです。

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┃池田晶子名文集┃18「ウィトゲンシュタイン」0800520
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(※彼は言語の本質、その境界に)完全に触れていますよね。触れてい
るそのところで、境界のところでずっと立ち止まっている人です。語れ
ないのだという自覚を強烈に持っているんです。

 ですけど、亜流の人たちは、語れないというと、語れないからその先
は存在しないというふうに誤解しているんです。なぜなら自分が感じて
いないからです。

 池田晶子・大嶺顕『君自身に返れ・対談』本願寺出版社(2007)
 23〜24p
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※()内引用者補足。※タイトルはねこてつが勝手につけたものです。

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┃池田晶子名文集┃19「政治とは」0800527
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 東西冷戦の時代から文明間の衝突の時代へと移行したのは、まさしく
その解釈の側であって、何事かを信じ込み、何事かに熱狂する人々の心
性の側は、何ひとつ変わっていない。政治的現象を我が事のように論評
するとは、その熱狂の一端を分けもっているのでなければ不可能であろ
う。イデオロギーは終焉したとは、その熱に浮かされた口から出る同じ
浮わ言の一種と聞いたほうがよい。新たなスローガンを与えてみよ、自
ら考えることを最初から放棄しているこの動物は、嬉々としてそれを担
いで歩くであろう。そして、政治とは、まさしくこの種の動物の群を、
思う方向へ誘導する術ではなかったか。

 右が行き止まれば左へ、左が行き止まれば右へ、動物的反射行動を繰
り返すのみのこの種の心性は、したがって、人間の精神と呼ぶにはふさ
わしくない。何がしか人間の言葉を叫び上げてはいるだろう。しかしそ
のような音声は言葉とは違う。人間は未だ生まれてはいない。いや、こ
の現代においていよいよ、人間の誕生は遠のいてゆくようにも見える。

 池田晶子『新・考えるヒント』講談社(2004) 27〜28p
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※タイトルは、ねこてつが勝手につけたものです。

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┃池田晶子名文集┃20「日本人の誇りがどうした」080603
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 人は言う、「日本人の誇り」と。「日本人であることに誇りを持て」
と。

 しかし、たまたま日本人に生まれたということ、この偶然性には、い
かなる当人の努力も関与していない。無償である。いかなる当人の努力
も関与していない、無償である事柄に誇りをもつのは、たまたま人間に
生まれたから人間であることに誇りをもち、「人権」を主張するのと、
どこか違うのだろうか。「人権を」を主張するその人の人間性、すなわ
ち精神性は低劣なままで、自分は人間だから人間であることに誇りをも
つといっても、まわりな信じないだろう。「日本人」の場合も、同じ。

 つまり、どちらも何かに帰属したいのである。結束したいのである。
帰属したい結束したいというのは、いうまでもなく弱さの現れであって
自分が何者でもないことに耐えられない弱い人が、別の何かに自己同一
性(アイデンティティ)を求め、それを「誇り」というのである、うん
とキツイ言い方をすれば。

 池田晶子『考える日々』毎日新聞社(1998) 241p
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※タイトルは、ねこてつが勝手につけたものです。

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