【猫哲学145】080803


■老人たちの時代。


 猫は近眼なのだそうだ。

 ものの本によると、そのように書いてある。10メートルから20メ
ートル先のものはぼんやりとしか見えないのだとか。

 ホントにそうなのかなあ。その程度のお粗末な視力では、野生猫の場
合、獲物をみつけるのもたいへんだろうし、天敵のハイエナなんかは、
2秒程度でそれくらいの距離は走る。ほとんど生きていけないと思うけ
どね。

 まあ、べつに近眼でもいいか。必要な物をちゃんと見て判断を誤らな
ければ、それなりに生きていける。自分が見せられているのが何なのか
も理解できない連中みたいなことはないだろう。誰のことかって? そ
それはそのうちにわかります。

 ところで近眼にはメリットもある。老眼になりにくいのだ。私も近眼
なのだが老眼はほとんど進んでいない。いまだに老眼鏡が必要だなどと
思ったこともないし、当然ながら持っていない。というわけだからバカ
猫、おまえが年寄り猫になっても、新聞くらいは眼鏡なしで読めるだろ
う。よかったな。

「読まないニャ、そんなもん」

 そうだろうな。私が悪かった。

 ところで、またまた新聞の文字が大きくなったそうだね。私は新聞を
取っていないので詳しくは知らないが。

 でもねえ、これって、よく考えるとものすごくヘンなのである。気が
ついてますか?

 新聞の文字が大きくなるのは読者が老人化してきたからだという説明
でいちおう納得させられるが、でもちょっと待て。それでは、その老人
たちがまだ若いときに、まだ小さな文字でも平気で読めたときに、周囲
に老人はいなかったのか。そんなはずはないだろう。

 いま新聞が読みにくいからといって文字を大きくしてもらうというサ
ービスを受けている世代には、父親も祖父もいただろう。その父親は、
祖父は、新聞を読まなかったのか。そうではないはずだ。昔の人は必要
とあれば虫眼鏡を使ってでも新聞を読み、おしゃれなルーペだって持っ
ていて一種のファッションにさえなっていた。その人たちは、新聞の文
字が小さいから読みにくいなどと文句を言ったのだろうか。

 しかるに何なんだ、いまの老人たちは。自分らの老眼が進んできたか
らといって文字を大きくしてあげると言われて、そんなことで納得する
のか。新聞の本質に遡ってことの是非を考えてみたことはあるのか。

 文字を大きくして紙のサイズが変わらなければ、情報量は減る。あた
りまえだな。じゃ、情報量が減ることは、読者サービスの低下ではない
のか。そんなサービスに金を払うのか。

 むかし、戦前戦中の新聞といえば、物資の乏しいなかで僅かな紙を確
保しながら新聞を刷っていたから、必然的に文字はものすごく小さなも
のになった。そんな新聞を、昔の家族は家長をはじめとして、お母さん
もおばあさんも子供たちも、老若男女にかぎらず必死に読んだのだ。記
事の内容は情けなくなるほどの戦争礼賛記事だったけどね。

 そうだというのに現代というのは、特定世代が老眼になったから文字
を大きくするって? そんなことをしたら、新聞記事の文字数も制限さ
れるから、内容もスカスカなのものになる。文章書きとして私は、文字
数が2割も3割も制限されたら、いかに文章が内容をなくしていくか、
よく知っている。

 だいいち、老人たちにはそれでよくても、まだ老眼になっていない若
い人たちにとっては、ものすごく失礼な話ではないのか。(若い人は新
聞を読まないって? あ、こりゃ失礼。)

 情報は、それ自体が価値なのだ。読みにくいからといって文字を大き
くして文字数を減らすということは、明白に新聞の価値を減じている行
為だということに、なぜ気がつかないのか。

 それ自体が価値でもなんでもない情報だってある。くだらない情報の
ことだ。そんなものなら削減していってもいっこうに変わらないだろう
が、それができるということは、今までくだらない情報を新聞に載せて
いたということになる。新聞みずからによる、その価値の全面否定であ
る。

 そんなもん、たいして変わりはないよというご意見も、もちろんある
だろう。新聞なんてそこまで考えるほどのものではない、と。そういう
人は、つまりどうでもいい記事を何も考えずに読み飛ばしてきただけの
ことで、最初から新聞に価値など感じていなかったのである。本当の問
題は、そういう「どうでもいい」人たちが世の中の大半を占め、ただの
惰性で新聞を買い、新聞再販制度の維持に貢献してきたということなの
だ。

 その一方で、木材資源は壮大きわまりない規模で浪費された。日刊総
量4000万部(推定)!この新聞に使われる木材資源が、いったいど
れほどの量になるのか、考えてみたことがあるか。それがどんなに無駄
でひどい環境破壊であることが、わからないか。

 新聞なんか、読むのやめなさい。それが地球のためだ。

 以上が新聞に対する私の態度なわけだが、今回のテーマはそういうこ
とではない。問題は読者だ。自分らが老眼になってきたら、新聞の文字
を大きくしてもらえる世代とは何なのだ、それってまともなことか。こ
れが今回のテーマである。

 自分たちに合わせて時代が変わってくれた世代。

 何というか、人類史上でも希有なことではないだろうか。彼らが幼い
頃にマンガ雑誌が出版され、あくまで彼らを主役、あるいはターゲット
とした物語が綴られた。彼らが思春期になると『週間プレイボーイ』、
『平凡パンチ』などが創刊された。彼らが大学を卒業し、就職して金が
自由に使えるようになると、『ポパイ』『ブルータス』といった物欲系
の雑誌が創刊された。

 彼らが形成する核家族は「ニューファミリー」と呼ばれ、それが少し
嫌みにソフィスティケートされてくると「ヤッピー」などという言葉が
流行した。

 彼らが望んだ通りにテレビはカラーになり、車までもが彼らに合わせ
て進化し、お手頃な値段になった。

 羨ましいのではない。その逆だ。そうした時代の激しい動きの渦中に
身を置いて、彼らはいったい、時代や世界をクールに読む目を持てたの
だろうか。

 動いているものよりも、静止しているもののほうが観察しやすい。あ
まりに近くにあるよりも、少し距離をおいて見るもののほうがよく見え
る。しかし時代は、彼らに時代を見る手がかりを与えないまま急速に変
化した。だから彼らは、時代を分析し、本質を見抜く目を持つことがで
きなかったのではないか。

 だから彼らにあるのは、はてしない自己肯定と、現状肯定である。私
はこれを、とてもかわいそうなことだと思う。

 彼らが若さを誇れないような年齢になると、「ちょい悪おやじ」が流
行語になり、ファッションになり、雑誌までもが発行された。

 さらに「おやじ」とも呼べない年齢になると、「枯れセン」なる言葉
で老いそのものを美化する風潮が生まれた。どれもあの世代の、はてし
ないまでの自己肯定、自己憐憫に狙いを定めたものである。それらはす
べてマスコミ界の陰謀なのだが、だからこそ、この種の策謀は常に成功
する。

 誰も「あっほー」とは言わないからね。

 私は小声で「あっほー」と呟いてきたけれど。

 これから時代はもっと混沌を深めていくだろう。その時代を結果的に
動かすことになるのは、やはり彼らである。今の日本の醜悪な現状も、
彼らが選んだことである。あいも変わらず、現代日本の主役は彼らなの
だから。くそ、元気なじーさんどもめ。

 彼らの人口は私の世代の8倍もいる。私にはどうしようもないのだ。
これからの日本の生き方を決めるのも彼らである。より正確に言うと、
政府が決定したアホな政策を、何も考えずに追認し、結果的に彼らだけ
が救われる時代になるのだ。

 そして彼らの選択は、常に間違えている。だって、スカスカの新聞記
事の嘘の情報しか知らなくて、それが正しいと信じているのだものね。
どうせ次の選挙でも自民党に入れるのだろう。

 嘆かわしい。私はもう諦めている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「ひどい出来ね、今回の文章」

 いつもの超美女は、容赦というものを知らない。

「誰にだって才能の枯渇する時期はある。もうすぐ元にもどるさ」

「そういうときはね、何も考えないでおいしいごはんを食べるのよ」

「知ってるよ。いつもそうしている」

「じゃあ、今日は日本酒でいこう」

「ありゃ、あの激うま日本酒バーのことを、何で知ってるんだ」

「隠そうとしてたでしょ」

「いや、それは…」

 バコッ!
            F−pon

閉じる

All contents copyright (C) 2006 NEKOTETUGAKU by F-pon