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【週刊ウィトゲンシュタイン7】
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※ ※【(どうやら週刊)ウィトゲンシュタイン】 Vol.7 ※ ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
今回は、そろそろクライマックスに入っていこうかと思います。 まず、下の一行を読んでください。
================================ ※5.6 ※私の言語の境界が、私の世界の境界を意味する。 ================================
何のことやら、分かります? 私はさっぱり分かりません。今回は、 この意味不明な言明を追っかけて、少しでもその認識に近づいてみまし ょう。
================================ ※5.61 ※論理が世界を満たしている。世界の境界は、論理の境界でもある。 (中略) ※思考することのできぬものを思考することはできない。とすれば、 思考することのできぬものを語ることもできない。
※5.62 ※世界は私の世界であるということは、言語の[それだけを私が理解 している言語の]境界が、私の境界を意味している、ということの うちに示されている。 ===============================
私たちは言葉を使って考える。ところで、考えることのできないも のは、考えられない。だからそれが言語の限界だ、というのではなく て、ウィトゲンシュタインは「世界の境界だ」と言うのです。ここで またまた ? …
実例をあげて考えてみましょう。「無」を考えることは可能か。
「無」というと、空間に何もない状態を思い浮かべちゃいますね。 でも、それでは完全じゃない。空間が存在している以上それは「無」 とはいえない。では、その空間を取り払ってみると、「無」は限りな い小さな一点に収斂して、消え失せる。それでおしまい。それ以上、 考えられない。絶句。これが言語の境界ってやつなんです。
ここで、前の二つ目の文章の頭を見てください。「世界は私の世界 である」。
これはもちろん、「世界は俺のもんじゃーい」と喜んでる小藪大統 領の思いこみとはぜんぜん違います。世界というのは、どこまでまで いっても私が言葉を通じて認識できる限りの世界であって、私には私 の世界、YRちゃんにはYRちゃんの世界がある。両者は重なり合い ながら微妙に違っていて、それぞれの世界を構成しているのだ、とい えば、わかりやすいですかね。(注:小藪=ブッシュJr.)
んでもって、私の境界を決めているのは言語だから、言語の境界が 世界の境界である。というと、いちおう筋が通ってるのだけど、私は なかなか腑に落ちませんでした。
で、ある日、こういう問いを立ててみたのです。「この世のいった い誰が、言語の境界を越えた世界の概念を所有することが可能である のか」。不可能。誰もいません。それでわかりました。私はまだ、何 か空想的な世界を夢見ていたのでした。ウィトゲンシュタインの徹底 したリアリズムの前に、それは崩壊したわけです。
さて、そこから導かれる味わい深い認識を、ウィトゲンシュタイン 自身の言葉でお届けしましょう。
=============================== ※5.621 ※世界と生は一つである。
※5.63 ※私とは、私の世界のことである。[小宇宙]
※5,632 ※主体は、世界のうちに属するのではない。それは、世界の境界なので ある。 ================================
いや〜、かっこいいですねえ。解説したいことはいっぱいあるけど、 今回は味わうだけで、やめときましょう。
ではまた来週。F−ponでした。
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