【猫哲学20】


■パクリ元

 猫哲学も20回目を迎えます。

 これを記念して(?)、私に「猫と哲学でなんぼでも書けるぞ」とい
うヒントを与えてくれた作家をご紹介しましょう。

 エルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマンという人。ドイツ後
期ロマン主義の小説家ということにされている。オッフェンバックによ
って『ホフマン物語』がバレエ化され、日本でもよく上演されるので、
こちらの原作者としてのほうが有名かも。

 ちなみにバレエ『ホフマン物語』は映画化もされ、日本でもちょっと
したヒットになった。たまにBSの深夜で放送しているが、見出すとや
められなくなる。映画としてもかなりの傑作です。機会があればぜひご
覧ください。

 で、この人、かなりヘンな人である。

 私は、実をいうとホフマンのファンで、日本で手に入るホフマンもの
(ただし翻訳)は、たいがい持っている。なぜか気が合うというのか、
この人の本を読んでいると楽しくなるのだ。

 モーツアルトおたくという点でも私といっしょで、アマデウス・ホフ
マンのアマデウスは、モーツアルトを真似て自分で勝手につけた名前ら
しい。本名はエルンスト・テオドール・ウィルヘルム・ホフマン。

 彼は「真にモーツアルトを理解できるのは私だけである」と思ってい
たらしく、著作にもしばしばそんな文章が出てくる。この点でも私と同
じである。もっとも、私のほうがだんぜん上だが(…冗談だよ)。

 1776年、ケーニヒスベルクに生まれ、ケーニヒスベルク大学で法
律学を学んだ。これもまた、大阪に生まれて大阪の大学で遊んでいた私
と似ている。(そろそろしつこくなってきたかな?)

 作家としてそこそこ有名だが、むしろ作曲家としての評価が高い。オ
ペラ『ウンディーネ』(英語風にいうとオンディーヌ)を発表し喝采を
あびた。指揮者として、また音楽評論家としても活躍したというから、
手八丁口八丁、当時の大文化人だったわけだ。

 ちなみに筆者は、某大学の吹奏楽団において、コンサートマスター&
指揮者をしていたことがあります。ホンマやで。

 ホフマンの小説の作風は一貫して怪奇幻想風で、若い頃の私にはたま
らんほど楽しいものだった。ところが日本では、「とくにこれが有名」
という作品がなくて、だからマイナーな作家と思われ続けている。

【…謎の男コッペリウス博士が発明した自動人形。そのねじをキリキリ
と巻くと、人形は奇妙なカクカクした動きで踊り始める。それを見てい
る主人公は魔法の眼鏡をかけているので、自動人形が絶世の美女に見え
一目で恋をしてしまう。自動人形と踊る主人公。それをまた、はやし立
てる人々…。『砂男』】

 すごいイメージでしょう。私は、読みながら頭がクラクラしてきまし
たよ。語りの視点が、魔法の眼鏡をかけた主人公になっているので、い
ったい何が本当なのかよくわからない。その状況で人形とダンスを踊る
ので、踊っているのが美女なのか自動人形なのか判然としなくて、両方
のイメージが交錯するわけですね。酒を飲まなくても十分に酔っぱらえ
る、そんな作品ですが、まあ日本のうじうじした純文学的傾向と比較す
れば、評価されないのも何となくわかる。

 たまたま彼の原作を、チャイコフスキーが続けてバレエにしたものだ
から、そちらのほうは超有名になってしまった。『コッペリア』『くる
み割り人形』、どちらも一度は耳にしたことがあるでしょう。でも原作
者がホフマンであることはあまり知られていなくて、チャイコフスキー
が書いたと思っている人も多い。

 せっかくのなので、彼の代表作を列挙しておこう。

 『ドン=ジュアン』
 『黄金の壺』
 『犬のベルガンサの運命にまつわる最新情報』
 『砂男』
 『世襲地』
 『くるみ割りとネズミの王様』
 『騎士グルック』
 『石の心臓』
 『悪魔の妙薬』
 『雄猫ムルの人生観』

 いやー、見事なまでに誰も知らないような表題が並びましたねえ。こ
れじゃあ、有名じゃないのも無理もないかなあ。べつにどうでもいいけ
どね。いや、どうでもよくない。有名なほうがどんどん翻訳されて、文
庫本にもなって、手に入れやすくなるはずではないか。私が彼の作品を
手に入れるのにどんなに苦労したと思っているんだ。ああ、マイナーな
作家のファンでいるのもつらいものがあるな。

 私がまだ20代の頃に『ホフマン全集』というのが刊行されて、これ
でホフマンの全作品が読めるのだ、うれしいなと思っていたら、5巻だ
け出たところで絶版になってしまった。私が未来という概念に大きな変
更を加えたのは、これがきっかけである。

 話題がそれた。つまりこのホフマンという人、誰かがバレエにしてく
れたおかげでかろうじてその名と作品が生き残っているわけだ。こうい
う作家も珍しい。でも音楽界の巨匠がたて続けにバレエにするくらいだ
から、当時としては超一級の作品として評判をとっていたことは間違い
ないんだけど。

 ドストエフスキーみたいな時代を超えたメジャーになれば、こんなこ
とにはならかったのに。でも、ホフマンはけっしてそうはならなかった
ような気がする。

 というのが、彼は小説というものを、冗談で書いていたからだ。怪奇
幻想風のおとぎ話を書いて、そのめくるめくイメージをおもしろがって
いただけなのだ。ドストエフスキーのように思想や苦悩を作品のなかに
持ち込もうとはしなかった。だから、苦悩煩悩思想世界観で悩むことの
好きな人からは、「何だこれ」と捨てられるしかない。

 まあ、ホフマン自身にはどうでもいいことかもしれない。彼は作家と
いうよりも法律家として生きていたのだから。ベルリンの大審院判事を
つとめるほど、法律家として成功した人生を歩んでいた。小説は、遊び
で書いていたのだ。もちろん真剣な遊びとしてだけどね。

 ところで小説というものの読み手には二種類ある。おもしろいものを
楽しく読みたいだけの人と、小説から人生を教わりたい人と。

 私はだんぜん前者であるから、ホフマンなどという軽くておちゃめな
作家におぼれてしまうことになる。後者みたいな人が、トルストイだの
ドストエフスキーだの大江健三郎だの、けっきょく何を書いてあるのか
よーわからん本を読んで、人生を無駄にするのだ。

 ところで、ホフマンの短編のひとつに『賭博者』という傑作がある。
トランプ賭博で生きる主人公が、つかの間の栄光の果てに、やがて家も
財産も、愛する妻までも賭博でスってしまうという物語だが、賭博心理
の迫力満点の描写がすばらしい。

 ドストエフスキーも『賭博者』という短編を書いている。この人の小
説にしては珍しく引き締まった構成で、冗長さがなく、うだうだしたお
しゃべりも少なく、とてもしっかりとした小説なのだが、その内容は…
いや、現代にはまだまだドストエフスキーのファンが多いことだし、こ
れ以上書くのはやめておこう。

 ホフマンの最長の作品が、『雄猫ムルの人生観』である。私はこれも
持っていて、ぼちぼち読んでいるが、おもしろい。猫を主人公にして、
人間のあれこれをバカにする手法は秀逸。私はこれにヒントを得て、猫
哲学を書き始めた。でも、猫を主人公にして語らせるような、そのまん
まのパクりはしていないよ。それに雄猫ムルのように日常を語るのでは
なくて、哲学という非日常をテーマにした。だから、盗作だとか恥ずか
しいだとか、そんなことはまったく思っていない。

 さてこのへんで、みなさんの胸に、猫が主人公、猫語り文学はもうひ
とつあるんじゃないかと、記憶がわきあがってきませんか。そう、かの
旧千円札大文豪様の筆になる、「我が輩は猫である。名前はまだない」
で始まる超メジャー作品。日本でだけのメジャーだけどさ。

 私は、みなまでは申しません。あとは読者の判断におまかせします。
あの文豪氏が英国留学中には、この作品の英訳本がロンドンで売られて
いた事実を指摘させていただくだけに止めておいて。まあ、あの千円札
文豪氏には、こういってあげたい。「恥ずかしくなんてないですよ〜。
ドストエフスキーだってやってたんだからねえ、よしよし」。

 かのホフマンにしたところで、こんなことは気にもとめないだろう。
なにしろ、彼はものすごく忙しい人だったのだ。法律家で小説家で作曲
家・指揮者で音楽評論家で、そのうえ画家として絵まで描いていたのだ
から。作品点数の少ない(当然!)彼の絵は、オークションなんかに出
てくると高い値段がつくという。

 こんなにバリバリ多方面に活躍して、しかも社交界の人気者だったと
までいうんだから、いったいいつ寝ているんだろうなんて心配してしま
う。案の定、ほとんど寝なかったそうだ。昼は法律の仕事をして、夜は
小説を書いていたんだって。おいおい…。

 1822年、ホフマンは46歳の若さで世を去った。死因は過労だそ
うである。

 変なやつ。
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